パワーゲーム 謎解き−怒りを浴びた子供

何日か前、なぜか、同じような人と出会い、同じような目に遭っていたということを書きました。いろいろと相談を受けているうち、愚痴ばかり聞く羽目になり最後には罵詈雑言を浴びせられ、なんともいえない情けない状態になるというものです。
AさんとBさん、共通点といえば、カッとしやすい。すぐに怒る。怒ったときの激しさは怖い。でも良いひとにわたしには見えてしまう。
なんでしょうか❓
お二人はよく、イライラするとか言ってました。それはわたしに対してではなく、ちょくちょくイライラするということです。また、憂さ晴らし、とかスカッとするとかいう言葉も多かったと思います。
話は変わって、このお二人をどうこうというのではなく、私はどうしたいのかということをずっと考えてみました。よく考えて見ると、私は怒る人、激しい言葉は大嫌いで、怖いのです。怖いのに、嫌いなのに、そういう人をわざわざ見つけ出し、ボカボカにやられるように自分自身を持っていくのはなぜなのか❓本当はもう嫌なのです。できれば、いや、絶対に怒りっぽい人とは交友したくない。そんな気持ちがあるのになぜなのか❓
ぼんやりと見えてきた答えみたいなものがあったのですが、はっきりと自覚はありませんでした。しかし、ネットの夫婦喧嘩の記事を見てあぁそうだと納得いったのです。
怒鳴り合いの夫婦喧嘩を見て育った子供は非常にマイナスの影響を受けてしまうそうです。そして、親の怒りを自分のせいと感じて自分を責めたり、なんとか親の怒りを鎮めようと我が身を差し出し、怒りの対象とわざとなったり、道化となったりするようなのです。喧嘩、怒り、両親の心と関係の問題なのにまだ小さい子供は幼児的な万能感から、自分が何かすることでどうかなるのでは❓と思ってしまうのです。

自分自身が親の直接怒りの対象となっても、道化としてその場を収めても、えんえんと親の愚痴を聞き続けても親の喧嘩は年月を経ても終わりません。
そんなことを考えながら、私の親も非常に怒りやすい人で、恐ろしかったことを思い出しました。いつもそうではないし、優しい時も多いし、そういうことを私は思い出すことも辛かったと思うことも全くなかったのですが、微かな記憶があるのです。激しい喧嘩と、怒り狂う母と、子供も切られるようなものすごい言葉とがあったような、それは確かにあり、幼い時だけではなく、ずっと私が成人した後も延々とあったのです。

ものすごい激しい言葉なのに、微かにしか思い出せないのは、不幸中の幸いというか、ショックが緩和されるので良いですが、そのために、いつまでも同じようなことを繰り返していたように思います。

しかし、他人の怒りを吸収してなんとかその場を収めようとするようなサンドバッグのような役割はもうごめんです。
自分の中に−自分がサンドバックや愚痴のゴミ箱になればいつかは変わってくれる
なんて幻想があったのです。怒りの渦巻く家庭で、恐怖におののき暮らしていたなんて、信じたくなくて目を背けていたのかもしれません。

続く


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by kumatoguanaco | 2018-07-22 18:44 | 心理学 | Comments(0)  

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